本当につまらない?|『仮面ライダーギーツ』への批判を検証

雷堂

令和ライダー第4弾としてスタートした『仮面ライダーギーツ』。

発表と同時にSNSなどで大盛り上がりを見せたのは例年通り。仮面ライダーシリーズに対する世間の変わらぬ注目の高さが窺える。

ところが、第1話放送直後、ネット上は荒れた。「つまらない」とか「つまらなそう」という意見が溢れかえったのである。肯定的な意見は完全に少数派だった。

正直に言えば、私も第1話は微妙だった。伸るか反るか、そんな期待と不安が入り混じった。

だが、第2話以降は普通に楽しめている。実際、最近は盛り返している様子も見受けられるし、全体的な評価も低くはない。ここでいつも例に挙げる指標だが、『仮面ライダーギーツ』でググってみて欲しい。「95%が高評価」となっている(2022年10月9日現在)。

とは言え、仮面ライダーは1年も放送される作品なのだから、現時点で面白いかつまらないかを断定することなどできない。ネット上に転がる意見は全て「現時点では」という注釈付きだ。それを十分承知の上で、本記事では、『ギーツ』に対してなされている批判について私なりの意見を述べてみたい。最後までおつきあいいただければ幸いだ。

目次

歴史を変えた多人数ライダー作品

画像引用元:仮面ライダーギーツ

さて、批判について語る前に、本作のセールスポイントの一つである「多人数ライダーもの」について触れておきたい。

わざわざ「多人数ライダーもの」と謳うのは、50年の歴史を持つ仮面ライダーシリーズの中では珍しく、2002〜2003年の『仮面ライダー龍騎』、2013〜2014年の『仮面ライダー鎧武』、2020〜2021年の『仮面ライダーセイバー』以来である。

『龍騎』から『鎧武』まで10年、『鎧武』から『セイバー』までは6年の期間を空けているのに対し、『セイバー』から『ギーツ』までは1年しか空いていない。これについては、長い歴史を持っているからこそのネタ切れという側面もあるとは思うが、今年20周年を迎える『龍騎』へのオマージュ的な意識も働いているのでは? などと想像している。真偽のほどはわからないが。

ここで少し『龍騎』について思いを馳せてみる。

『龍騎』は『クウガ』『アギト』に次ぐ作品で、平成ライダーシリーズとしては第3作目。仮面ライダー同士が自らの望みを叶えるため、最後の一人になるまでバトルロワイヤルを繰り広げるという前代未聞の設定だった。

本作は2001年9月11日に起こったアメリカ同時多発テロの影響を受けた作品と言われる。あれだけの衝撃的な事件を受けて、「今こそ本物の正義を子どもたちに伝えたい」と訴えたTV局に対し、白倉伸一郎プロデューサーが用意した答えは「正義とはそれぞれの立場で異なるもの」というものだった。つまり、これまで多くの特撮ヒーロー番組が描いてきた「平和を乱すものが悪で、平和を護るものが正義」という単純な構図ではなく、「平和を乱すものにも、そうしなければならないと信じる正義がある」ということを描こうとしたのだ。

正義の味方であるはずの仮面ライダーたちが、一義的な正義ではなく、己が信じる正義を振りかざし、バトルを繰り広げるという構造は、これまでの作品よりも格段にわかりづらい。しかし、これは世界の真の姿である。テロでも戦争でも、それを起こす側にも「人殺しは悪いこと」という認識はあるはずだ。それを理解してなお、そういった蛮行に及ぶことができるのは、そうしてでも貫きたい自分たちの信じる正義があるからである。

同じ仮面ライダーと名乗っていても、事故で意識の戻らない恋人を助けたい、とか、不治の病を克服したいといった切実な願いを持つものがいる一方で、単に殺し合いを楽しむものもいる。視聴者からは「子ども番組にふさわしくない」などといった多くの苦情が寄せられたようだ。誰もが皆、戸惑ったのだ。

この戸惑いの理由は、『龍騎』が起こした仮面ライダー史上最大の変革にあった。それは、先述した設定のことだけではない。

まずは多人数ライダーであったことだ。これまでの作品では、歴代ライダーたちが顔を揃えることはあっても、一つの作品の中に仮面ライダーと名乗る戦士が13人も登場したのは初めて。これには、過去のシリーズを知っている人ほど混乱し、拒否反応を示したはずだ。

さらにこれまでの作品であれば、特撮にさほど詳しくない人でも、パッと見て「これって仮面ライダー?」くらいの認識はできるレベルの“らしさ”があったデザインについても言える。『龍騎』の中でデザイン上のルールはあっても、これまでのシリーズを比べてしまうと、良くも悪くも何でもあり、みたいな雰囲気となり、ヒーローどころか、ただの怪人にしか見えないものもいる。個人的には、“らしい”とか“らしくない”といったことは無関係に、どれもそれほど好きなデザインではないけれど、これによって、以降のライダーのデザインがより開かれたものとなったことは間違いない。

しかし、そんな戸惑いをよそに、『龍騎』は大ヒットした。難解な設定にも関わらず、小林靖子さんが手がけた脚本は、子どもたちだけでなく、やがて大人をも魅了した。人気のカードゲームの要素を導入したことで、玩具の売上も絶好調で、平成ライダー最大のヒット作『電王』が登場するまで、シリーズ最高の売り上げ(139億円)記録を保持していた。賛否両論巻き起こったが、未だに本作をライダーシリーズの最高峰と推す人も多い伝説的作品である。

多人数ライダーと謳うことの虚しさ

画像引用元:仮面ライダーギーツ

さて、話を『ギーツ』に戻そう。

『フォートナイト』や『Apex Legends』といった人気のオンラインゲームの要素を取り入れた多人数ライダーもので、勝ち残ったものは自らの理想の世界を叶えられる、という設定は、やはり『龍騎』を想起する。オンラインゲームを意識した、という点は今っぽいし、多人数ライダーであることの必然性も理解できるが、しかし驚くくらい新鮮さは感じられない。

何故なら、最近の仮面ライダーシリーズは全てが多人数ライダーだからだ。

『エグゼイド』以降、一気にそういった気運が強まった仮面ライダーシリーズだが、例えば令和以降に限っても、『ゼロワン』で9人、『セイバー』で13人、『リバイス』で12人(デモンズトルーパーは量産タイプなので除外する)と、『龍騎』並の人数である(フォーム違いは算入しない)。いずれもTVシリーズのみなので、劇場版やスピンオフを加えれば、さらに増える。

これは異常事態である。多人数ライダーと謳おうが謳うまいが、登場するライダーの人数が変わらないという不思議。元々、グループとして戦うことを宿命づけられているスーパー戦隊の倍以上ものライダーが登場するという図式も、どうかしている。

いや、『ギーツ』のように多人数であることに必然性のある作品は問題ない。しかし、そうでない作品まで多人数化することで、『ギーツ』のような作品にまで「またか」といった筋違いな批判が寄せられてしまう。

わざわざ「多人数」であることを作品の特徴として発表する製作者の側も、それを一生懸命ツイートするファンの側も、やはりどこかで「仮面ライダーは少数精鋭」という意識があるのだと思う。仮面ライダーの主役は一人で、スーパー戦隊の主役はメンバー全員(レッドはあくまでもリーダーというポジション)、みたいな感覚があるのは私だけだろうか?

それなのに蓋を開けてみると、最近の仮面ライダーはスーパー戦隊並みに主役級のキャラが多く、しかもみんながライダーに変身してしまうのだから、もはやスーパー戦隊との差別化は諦めているようにも見えてしまう。この状況は、仮面ライダーのラノベ化、とでも言うのか、それともグループアイドル化、とでも言うのか。唯一無二のヒーローを立たせることに自信がないのか、とりあえず大勢出しておけば、視聴者がそれぞれに“推し”を決めてくれるだろう、的な人任せ感が強い。

登場人物を好きになってもらうことで番組を見てもらおうという手法は確かに間違ってはいないかもしれない。しかし、そうした安易な発想が、『ギーツ』のような作品を知らず知らず汚してしまっていることについては、製作する側も自覚するべきだと思う。

下手な正論が作品をダメにする

画像引用元:仮面ライダーギーツ

ネット上で見かけた意見には、「倫理観がない」とか「命の扱いが軽い」みたいなものが結構あった。これは第1話におけるジャマトによるそば屋の大将の殺戮シーンや、登場直後にあっさり死んでしまった仮面ライダーシローを指しているのだろう。日曜の朝から子どもたちが観るTV番組で、なんてものを見せるんだ! と言うご意見のようだが、正直、私にはこれらの何が悪いのかわからなかった。

仮面ライダーに限らず、スーパー戦隊でもウルトラマンでも、基本的に問題解決は鉄拳制裁である。「倫理観」を問題にするなら、とっくにアウトだろう。だからニチアサに倫理観を問うのは根本から間違っていると思う。

それに、命の扱いの軽さは「ゲーム」をテーマにした作品である以上、避けられないことだとも思っている。

考えてもみて欲しい。今や世界中の老若男女がこぞってオンラインゲーム上で殺し合いを続けているのだ。殺して殺されて、しかも何度でも復活する。そこには命の重さなどない。ちなみに『フォートナイト』はCERO“C”で、15歳以上が対象となってはいるが、現実的には小学生以下のプレイヤーも多いようだ。さらに殺し合いでないことを声高に強調する『スプラトゥーン』に年齢制限はない。武器は銃でなく水鉄砲だとか、プレイヤーキャラは人間でなくイカだとか、多方面に配慮している姿勢には、さすが任天堂と唸らせられる。しかし、やっていること自体は『フォートナイト』も『スプラトゥーン』も変わりはない。今この瞬間も、世界中で誰かが顔も知らない誰かと殺し合いを続けているのだ。

そういったことを踏まえてみると、批判の理由があまり真っ当だとは言えない気がするのだ。

昔は良かった、なんておっさん臭いことを言うつもりはない。しかし、たかがTV番組に対して過剰な倫理観を求めすぎた結果が、現在のクソつまらないTV番組の洪水状態であることは疑いようがない。どこを観ても、美味そうなものも不味そうなものも等しく大げさに食べるグルメ番組だとか、お笑い芸人とグラビアアイドルと大御所芸能人がひな壇に並んでガヤガヤしているバラエティ番組ばかり。当たり障りなくやろうとした結果がこれである。

仮面ライダーにまで、そんな倫理観を求めてどうするのか? その行く末には、論破で敵をやっつける『仮面ライダーひろゆき』みたいなものしか思い浮かばない。あり得ない。

人間の命や尊厳を踏み躙る巨大な敵に、勇気を振り絞って命懸けの勝負を挑む姿こそが仮面ライダーをはじめとするヒーローの醍醐味だ。そこに至るには、蹂躙される弱者や命を描かなければならない。場合によっては失われてしまう命もあるだろう。その損失やリスクが大きければ大きいほど、ヒーローは輝きを増すのだ。

人間は必ず死ぬ。なかなか死ねないようでいて、死ぬ時は一瞬だったりもする。生きていることが当たり前なのではなく、いつか死ぬことが当たり前なのだ。そして一度失われた命は戻らない。そんな真実に幼少期から向き合うことは、むしろ大切なことではないかとさえ思う。

それを教えてくれるものの一つが特撮ヒーロー番組だ。仮面ライダーV3やアオレンジャーを演じた宮内 洋さんの「特撮ヒーロー番組とは、子供達に正義の心を教える教育番組に外ならない」という言葉を思い出す。大人にとってはただのエンタメだろうが、子どもにとってみれば世の理を知るきっかけになっていることは間違いない。

だから私は、変わらずヒーローを支持する。『ギーツ』も支持する。作品として面白いかどうかは1年経つまではわからない。だから今はせめて、つまらない難癖をつけて貶めるようなことはしたくない。

もちろん、物語のテイストが合う合わない、デザインが好きとか嫌いといった趣味嗜好はあるだろう。それならそれで、「理解できない」「つまらない」くらいに留めておくべきではないのか。わざわざ倫理観みたいなものを持ち出すのは、さらに作品をつまらなく無味乾燥なものにしてしまう可能性があると思う。

特に子どものことを想うなら、なおのこと、子どもがそれを観て何に気づき、何を感じるのかを見守ることが大切であるはずだ。例え転んで膝を擦りむいたって良いはずだ。それもまた経験。つまづく前に足元に転がる小石を全て拾ってやるなど言語道断である。

こんなことを書くと、「こいつは信者だ」と思われてしまうかもしれない。しかし、それは本物の信者に失礼だ。私は好きなものは好きだとしか言えないし、嫌いなものは嫌いだとしか言えない。それは過去のレビューを読んでもらえれば明らかだ。

ただし、特撮ヒーローが好きだという気持ちだけは本物だ。だからこそ、途中で視聴をやめたりすることはない。今までも、そしてこれからも。

だからこそ、面白い作品を求め続けている。そのためにも、下手な正論でこれから生まれる作品を汚すようなことはしたくないのだ。特撮ヒーローよ永遠なれ。

雷堂

それでは、ここまでお読みいただきありがとうございました。

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この記事を書いた人

特撮ヒーローのレビュー(旧作から最新作まで)を中心に、好きなものを思いつくままに書いています。特撮ヒーローのイラストはインスタで。イチオシのライダーは『W』です。僕と握手!

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