『仮面ライダーリバイス』が失速している?
最終回まで残り約2ヶ月となった『仮面ライダーリバイス』への批判が目につく。
昨年、新番組として公式に発表された際には、その奇異なデザインと「銭湯」「家族」「悪魔」というイロモノ感満載のテーマに不安を感じた人たちが多かったものの、蓋を開けてみれば、見た目とは裏腹にダークヒーローという原点に回帰したような作風や魅力的な悪役たち(デッドマンズ)の人気もあって、かなり好意的に受け入れられていたように見えた。平成以降、デフォとなった感のある、2話で1エピソードという作り方を活かしたミステリっぽい展開もワクワク感を増幅させてくれた。
とは言え、「つまらん」と言っている人たちもいたのは事実だ。私自身は全然そう思わなかったが、そう感じる理由について考えてみたこともあった。それが以前書いた記事だ。
2022年7月現在、「仮面ライダーリバイス」というキーワードでググると、「92%のユーザーがこのテレビ番組を高く評価しました」と表示される。結構な高評価ではないだろうか?
ちなみに、前作『仮面ライダーセイバー』だと、現在の高評価は78%となる。『セイバー』の低評価に関しては、別記事に考察しているので、ご興味があればお読みいただきたい。
これらの評価にどれほどの信憑性があるかは不明だが、現在、同じニチアサ枠で放送されている『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』で同様の検索をすると、高評価は88%となっている。私からすれば、90点を下回るなんてあり得ないと思うくらい大好きな作品だが、確かに万人受けするタイプではないので、そういった意味では、わりと公正な評価であるようにも思える。
だとしたら『リバイス』は世間一般には好意的に受け止められている、と言っていいはずだが、最近は批判的な意見がやたらと目につく。
これは私が『リバイス』を好きだからこそ、低評価の声が気になるということはあるだろう。
しかし、好きな気持ちに変わりないとは言え、ある時期から『リバイス』に対する熱量が変わってきたのも事実だ。
このモヤモヤはなんだろう?
本記事では、『リバイス』を見ていて気になった点を容赦なく突いてみる。基本的に特撮は、下手なツッコミなどせずに楽しむのが大人だと思っているのだが、本記事ではあえて、その愚を犯してみたい。最後までおつきあいいただければ幸いだ。
あっさり消される魅力的な悪役たち
悪魔崇拝組織デッドマンズ。
彼らの存在が、初期の『リバイス』人気を牽引していた一つの要因であったことは疑う余地がない。
アギレラを演じる浅倉 唯さんのかわいらしさも話題になったし、その脇を固めるニヒルなオルテカと猪突猛進タイプのフリオも、それぞれに個性的で物語を盛り上げるのに一役買っていた。
デッドマンズの目的は悪魔ギフの復活。
そのためには、アギレラたち3人と同等の上級悪魔になり得る素質を持った人間を複数人集め、彼ら(彼女ら)を生贄とする必要があった。
しかし、そういった素質を持つ人間がどこにいるのかわからないため、見込みのありそうな人間を次々に悪魔にしていくという設定は、私利私欲のためなら犠牲は厭わないという絶対悪としての思考が感じられたし、それによって描かれる、人々が悪魔を生み出すに至るドラマ(怒りや妬み、憎しみを抱えた人間模様)も見どころとなっていた。
ところが、第1クール終盤あたりから様子がおかしくなる。
まだまだ引っ張れるはずの、上級悪魔を探す旅が駆け足で収束してしまうのだ。
灰谷医師、若林司令官といった、デッドマンズをさらに盛り上げてくれるはずの、魅力ある悪役たちを登場させておきながら、びっくりするほど呆気なく幕を引く。
灰谷が登場した際には、『仮面ライダーW』の井坂 深紅郎くらいのサイコパスっぷりを見せつけてくれるのでは? と期待していたのに…だ。出オチ感がハンパない。
さらに、一度はあっさり敗退した工藤弁護士を加えて、必要な上級悪魔が揃ったというシチュエーションが半ば強引に作り出されてしまう。
それまで「ギフの花嫁」と持て囃されてきたアギレラが実はただの生贄だったという設定はまだしも、そうカンタンに集まるはずのない上級悪魔が、急にゾロゾロ揃ってしまうという展開には違和感を覚えた。
次の展開を準備している、というのはわかる。
しかし、だからと言って、畳み方が性急すぎる。
ここまでは一人一人の登場人物を丁寧に描いていた印象が強く、だからこそ各々が抱える葛藤みたいなものを理解も共感もできていた。
ところが、このあたりから急に潮目が変わってくる。
デッドマンズの崩壊だ。
言葉通り、デッドマンズの本拠地・デッドマンズベースが崩落し、組織としてもバラバラになってしまう。
灰谷も呆気なかったが、若林司令官の最後はもっと酷かった。今の子どもたちではわからないような一昔前のお笑い芸人に古の顔芸をさせるだけ。キャラをいつまでも引っ張ったから良いというものでないことはわかるが、あんなスピード感で退場させたことに意味はあるのか? ご本人から辞退の申し出があったのでは? なんてことを疑われても仕方のないレベルだった。
組織壊滅後に、どんどん悪役としてエスカレートしていくオルテカだけは見ものだったが、アギレラは急に存在感を失い、フリオはただのザコと化した(本記事執筆時点では、という注釈付き。ラストに向けて、きっと変身くらいはする機会が訪れるはずだ)。
あれだけ魅力的な悪役たちが用意されたというのに、どうしてこんな扱いになってしまったのか? 答えは製作陣にしかわからない。
赤石英雄が欠いた現実味
そんなデッドマンズに代わる悪役として登場したのが赤石英雄。政府特務機関フェニックスの長官である。
デッドマンズに対抗すると見せかけて、実はそのデッドマンズを影で操る存在だったというのは、ベタだが全然アリだ。
演じる橋本じゅんさんの怪演も手伝って、とても魅力的な悪役だったが、ただひとつの設定が全てを台無しにしたと言って良い。
それは、数千年前からギフとの契約に基づいて生かされているという設定である。
絶句した。
人類の監視者としての役割を与えられ、その代償として不老不死となった数千年前の王族らしい。
こういった虚構の物語だからこそ、可能な限りの現実味を付加することが物語にリアリティを持たせるためには重要なはずなのに、この設定だけで全てが安っぽい作りものにしか見えなくなった。
中南米の遺跡でギフスタンプを発見したメンバーの一人だった赤石が、その悪魔の力に魅入られて、自らの命を捧げ、悪魔となった、といった展開の方が、よほど説得力がある。『ジョジョの奇妙な冒険』第2部に登場したストレイツォみたいなものである。ベタかもしれない。しかし、永遠の命欲しさに禁断の石仮面に手を伸ばすという描写には人間が持つ死への不安と生への渇望が感じられる。そこには確かな現実味がある。
オルテカの影に赤石がいることがわかった時、オルテカが実は赤石の息子ではないのか? と予想したのは私だけではないはずだ。オルテカを愛でるようなシーンもあったし、それに反発するオルテカもいた。「家族」をテーマにする『リバイス』だからこそ、あり得る展開だったはずだ。五十嵐一家、狩崎親子、牛島一家に次ぐもうひとつの家族として、身勝手な父親と、その父親の思い通りに操られる哀れな息子の物語は、実現したら相当ドラマティックだったはずだ。
しかし、まるでかすりもしなかった。
結局、赤石は橋本じゅんさんの演技によって面白がられてはいたけれど、登場人物として見れば、その魅力は徐々に薄れてしまっていたように思う。
個人的な感情などなく全てを超越したかに見えた男が終盤になると、孤独に悩む大二にシンパシーを感じたり、その大二を「息子」呼ばわりして人間味を出したり、最終的にはよくわからない立ち位置のまま消えてしまった。
あれだけアクの強いキャラが、どうしてこうもあっさり役目を終えてしまったのだろうと考えると、残念という感想しか浮かばない。
必然性のない登場人物たち
25年の時を経て蘇った悪魔ベイル。
津田健次郎さんの渋すぎる声に、同性ながら毎度うっとりしていたけれど、登場する必要があったのかは微妙だ。
門田ヒロミの魂を喰らうデモンズドライバーという設定は、いかにも悪魔的で面白かったし、仮面ライダーデモンズも抜群にカッコ良かった。
しかし、そうまでして蘇らせたベイルが、ギフの復活にはほとんど関係なかったことは謎でしかない。
むしろ、元太の心臓にギフの細胞を埋め込んだという事実を提示するなら、元太こそがギフの宿主としてラスボス化した方が遥かに衝撃的な展開となったに違いない。元太の変身する仮面ライダーベイル(ラスボスとなるなら、仮面ライダーギフだったのだろうか?)には、それくらいの存在感があったはずだ。
ところが、その仮面ライダーベイルは、たった1回登場しただけで本編から姿を消してしまう。こうなると、単にスピンオフ『リバイスレガシー 仮面ライダーベイル』へと繋がる導線が生まれただけのように思える。
『仮面ライダーベイル』については、これまでに発表された様々なスピンオフの中でも屈指の出来栄えだと思うので、これはこれで見応えはあるけれど、本編で語られていれば、もっと良かった。
ちなみに、ベイルの着ぐるみ(赤いバイスみたいなヤツ)は、そもそもバイス用として作られたものだったが動きづらいという理由でスーツアクター・永徳さんから却下されたモノらしい。
つまり、倉庫に眠っていたわけだ。
製作費も使ったし勿体ないという理由だけで無理やり投入されたという可能性は拭い去れない。
台所事情はわかるけれど、それならもう少し登場する必然性を与えて欲しい。というか、スピンオフで使うだけじゃダメだったのだろうか?? そうであった方が『ベイル』の展開にも更なる驚きがあったはずだ。先述した通り『ベイル』は素晴らしい作品だったが、『刑事コロンボ』や『古畑任三郎』のように、視聴者には最初から犯人がわかっているので、そこから得られるカタルシスはさほどなかったためだ。
それにしても、戸次さんの演技に津田さんの声が重なるのはめちゃくちゃカッコよかった。だからこそ、物語の最後まで存在し続けて欲しかった。
悪魔とは?
悪魔ギフ。
こいつこそが、本作のラスボスとして描かれてきたはずだ。
そして本作に登場するライダーたちは、皆、悪魔の力を使うという設定だった。
ところが、である。
ギフが復活するや否や、赤石の口から語られたのは「ギフは地球外生命体」という事実。
誰もが「???」となったはずだ。
人類にとって「得体の知れない脅威の存在」だったギフを、誰かが「悪魔だ」と言い出したというのはあり得る話だ。
しかし『リバイス』では“人間は誰でも心に悪魔を飼っている”という前提で物語が紡がれてきたはずだ。
ギフが実は悪魔でないとしたら、人間の心に潜む悪魔とは一体何なのか?
ギフスタンプで実体化される悪魔とは一体何なのか??
そもそも悪魔とは???
まるで意味がわからなくなってしまう。
さらに言えば、五十嵐一家にまつわる悪魔たちもよくわからない。
元太のベイルだけは、想像通りの悪魔だったが、それ以外はめちゃくちゃである。
例えば、大二のカゲロウは登場したての頃は悪魔臭がプンプンしていたが、さくらのカレーが食べたいから従うという、まるでキレンジャーのような展開から徐々に人間臭さが出てきて、最後は大二の弱さを克服するために自ら犠牲になるという、まるで天使のような行動に出た。その結果、大二は天使のごときホーリーライブへとバージョンアップできたのだから、ある意味では、めでたし、ではあるのだが、悪魔としてどうだったかと言えば、疑問が残る。
さくらのラブコフは、ただのマスコットキャラだし、一輝のバイスに至っては、ただの心の友である。当初はそれなりに悪魔っぽさを醸し出そうとしていたけれど、今や悪魔らしさは容姿以外には微塵もない。
「悪魔と契約するライダー」という触れ込みは、仮面ライダーがダークヒーローだったという出自を強く意識させるもので秀逸だったと思うのだが、いつの間にかよくわからない展開となっている。
それどころか、ギフが悪魔でないとすれば、作中で悪魔と呼ばれていた他の存在も、果たして悪魔かどうかすら怪しくなっている。
「変身」はキャストの思い出づくり?
仮面ライダー出し過ぎ問題。
これは『リバイス』に始まったことではなく、いわゆる令和ライダーシリーズに共通する問題点のように思う。
平成ライダー末期もライダーの数は多かったと思うが、『仮面ライダー龍騎』のように、ライダー同士の戦いをフィーチャーした作品ならまだしも、悪そうな奴らもだいたいライダーみたいな流れには違和感がある。
この『リバイス』でも主要キャストのほとんどが仮面ライダーに変身している。本記事執筆時点では玉置も未だ変身していないため、おそらくライダーはまだ増えるだろう。毎回ラストに登場するスタンプカード(?)みたいなものに空白があることもそれを証明しているはずだ。
次々に新しいライダーを登場させることで、関連グッズを発売できるというメリットはあるだろう。バンダイがスポンサーである以上、そうしたビジネス視点での展開はやむを得ない。
しかし、ライダーの登場に物語としての必然性がないのは問題だ。
穿った見方をすれば、仮面ライダーという作品に関わったキャストの思い出作りのために変身の場を与えているようにも見えてしまう。打ち合わせの場で繰り広げられる「彼(彼女)にも変身させてあげたいね」といった会話が聞こえてくるようだ。
そもそもライダーだけ増やしても放送期間は変わらないのだから、その分、それぞれの活躍の場は少なくなってしまい、その結果、人気が出ず、グッズもあまり売れないという流れになっているように思うのだが、どうだろう。初変身シーンだけが注目されて、その後はモブ化してしまう「最初だけクライマックス」現象は出オチに等しく、虚しいだけだ。
関連グッズをたくさん出したところで、それらを全部購入するのは、ほんの一部のマニアだけである。少なくともメインの視聴者である子どもたちには購入できる資金もなければ、買ってもらえる環境もないはずだ(一部、大金持ちの子は例外かもしれない)し、そもそも新商品をたくさん投入するより、1個の商品を大量に購入してもらえた方が投資効率は良いに決まっている。
だからこそ、やはり仮面ライダーと呼べる存在は厳選して、それぞれの魅力を引き立てる方が作品としても商売としても上手くいくと思うのだが、どうもディレクションがおかしいような気がしてならない。それとも製作陣は、次々に新しいライダーを投入しないと飽きられる、とでも思っているのだろうか? 少なくとも過去の人気作を振り返ってみれば、そんなことは当てはまらないことがわかるはずだ。
別に私は平成ライダー信者ではないが、以前NHKで放送された「全仮面ライダー大投票」で人気作品トップ3に選ばれた『電王』『W』『オーズ』を思い返しても、フォームは多かったがライダーは多くない。
『龍騎』や『鎧武』といった人気作もあるので、多人数ライダー作品がダメと言っているわけではないが、多人数ライダーが当たり前になることには違和感がある。そもそも仮面ライダーとは孤独な戦士の戦いであるはずで、そこがスーパー戦隊との大きな違いであったはずだ。だから『龍騎』のように、あくまでも個々人として戦うライダー同士のバトルといったものなら見応えはあるものの、『セイバー』のように仲良し軍団になってしまうとライダー感が著しく削がれてしまうのだと思うのだ。
ヒーローは誰もが憧れるものではあるけれど、誰でもなれるものではない、という基本に立ち返って欲しい。
次なる50年へ
ここまで気になることをあげつらってきたが、それでも私は『仮面ライダー』が好きだし、『リバイス』が好きだ。
これがシリーズ50周年を記念する新ライダーですよ、と発表された時はびっくりしたが、始まってすぐにハマった。映画やスピンオフにハズレがないのも凄い。
コメディタッチの裏に垣間見える、薄暗い要素とのバランスも良く、久々にダークヒーローっぽさのある良い作品になりそうだと心底思えた。
当ブログでは全話レビューをやっているが、毎回書きたいことが多すぎて困るほどだった。
ある時期までは。
いつの間にか、何を書こうか迷うことがしばしばあるようになってきたし、『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』が始まると、興味は完全にそっちに向いてしまった。
面白くなくなったわけではない。しかし、熱量が下がったのは間違いない。
本記事は、あれほど熱かった『リバイス』に対する熱が、いつの間にか冷めていることに気づいた私が、その冷めた理由を深掘りしてみた極々私的な内容である。
もう少しざっくりとした内容にするつもりが、気がつけば重箱の隅をつつくような内容になってしまっていた。
共感してもらえるかどうかはわからない。
だが、『リバイス』という作品で仮面ライダーは終わらないし、これからも終わって欲しくはないという想いで書き上げた。
ここからの50年を惰性ではなく、いつまでも熱狂を持って迎えられ続けて欲しいというエールを込めたつもりだ。
『リバイス』の最終回まであとわずか。
50周年記念作としてライダー史に残る作品となるべく、最後まで全力で駆け抜けて欲しいと切に願っている。
それでは、ここまでお読みいただきありがとうございました。
\ 僕と握手! /