2022年5月13日公開『シン・ウルトラマン』(監督:樋口真嗣 脚本:庵野秀明)
圧倒された。
およそ2時間という上映時間を全く意識させない展開。片手に抱えたポップコーンに視線を落とす時間さえもったいないと感じられるほどの没入感。
隅々にまで込められた『ウルトラマン』への愛。それが観客に余すところなく伝わっているのは、公開後、およそ2週間で興行収入20億円突破という実績が物語っている。
その一方で、「おっさんホイホイ」などと揶揄もされている本作だが、気になったところも含めて、率直な感想をレビューする。ネタバレも含むが、最後までおつきあいいただければ幸いだ。
キャスト
ここでは本作のキャストをご紹介。
ウィキペディアに記載のある方については、リンクを貼っておくので、他の参加作品などもチェックしていただきたいのだが、作中で登場人物たちの口から語られる「マルチヴァース」という言葉が示すものなのか、『シン・ゴジラ』にも出演していたキャストが多い。
役柄はまるで異なる(竹野内豊さんだけが似たようなポジションなのは、何かしら意味があるのかも知れない)のだが、こうして同じキャストが別の作品で別の役を演じる、というのは、故・手塚治虫先生の作品の特徴でもあった。
このマルチヴァースとは、多元宇宙論のこと。カンタンに言えば、平行宇宙の話、である。
なお、以下の画像は全て『シン・ウルトラマン』から引用している。
神永 新二(カミナガ シンジ)
浅見 弘子(アサミ ヒロコ)
滝 明久(タキ アキヒサ)
船縁 由美(フナベリ ユミ)
田村 君男(タムラ キミオ)
宗像 龍彦(ムナカタ タツヒコ):田中 哲司|禍特対室長
小室 肇(コムロ ハジメ):岩松 了|防災大臣
大隈 泰司(オオクマ タイシ):嶋田久作|内閣総理大臣
狩場 邦彦(カリバ クニヒコ):益岡 徹|防衛大臣
中西 誠一(ナカニシ セイイチ):山崎 一|外務大臣
政府の男:竹野内豊
内閣官房長官:堀内正美
首相補佐官:利重 剛
早坂(ハヤサカ):長塚圭史|陸上自衛隊戦闘団長
加賀美(カガミ):和田聰宏|警察庁警備局公安課
リピア(声):高橋一生
ザラブ(声):津田健次郎
メフィスト:山本耕史
ゾーフィ(声):山寺宏一
上映開始1分で夢中になる
ぐちゃぐちゃにかき回された絵の具が逆回しされ、ラテアートのように『ウルトラQ』の文字が浮かび上がる。これがウルトラシリーズの原点にして、伝説の特撮ドラマ『ウルトラQ』のオープニング。
では、『ウルトラマン』のオープニングはどうだったろうか? ぐちゃぐちゃにかき回された絵の具が逆回しされ、ラテアートのように『ウルトラマン』・・・いや、やっぱり浮かび上がるのは『ウルトラQ』の文字だ。
初見では「あれ?」と思うかもしれない。
しかし、次の瞬間、その『ウルトラQ』のタイトルロゴを裏からぶち破るように画面は赤く染まる。そこには白抜きで『ウルトラマン』の文字と『空想特撮シリーズ』の文字が描かれている。これが『ウルトラマン』のオープニングである。
2つの作品がシリーズであることを主張する粋な演出だ。
『ウルトラQ』『ウルトラマン』を愛する人たちにとって、このオープニングの演出は尊い。それを、本作では、現代的な3DCGで再構築して見せる。再現ではなく、再構築であることが重要で、これによって、元となった2作品を知る人たちのノスタルジーを刺激するだけに留まらず、知らない人たちにも刺さるものとなっている。これだけで「カッコいい」とテンションが上がるのは間違いない。
そうして描かれる文字は『ウルトラQ」ではなく、『シン・ゴジラ』。それをぶち破るように『シン・ウルトラマン』の文字が躍り出る。『ウルトラQ』と『ウルトラマン』がシリーズであることを示していたように、『シン・ゴジラ』と『シン・ウルトラマン』が、庵野さんらによる特撮リブート作品第2弾であることを示しているのだ。『ゴジラ』と『ウルトラマン』を同列に並べることには多少の違和感もあるが、そんなことは大した問題ではない。
その下に描かれた『空想特撮映画』の文字も、原作への強いリスペクトが感じられる。冒頭のこれだけの演出で、製作陣のウルトラシリーズへの深い愛が伝わってくる。
本作の脚本・総監修をした庵野さんは、学生時代に『ウルトラマン』を模した自主制作映画を撮っていたというエピソードが有名だが、『ウルトラマン』とは直接関係のない『エヴァンゲリオン 新劇場版』などの作品でも、自身が代表を務める株式会社カラーのロゴを『帰ってきたウルトラマン』変身時の効果音と共に登場させたりもしている。
つまり、本作は、『ウルトラマン』を心から愛する人たちの手によって創られた、「ファンが見たかったウルトラマン」であることが、オープニングを見ただけで理解できてしまう。その熱量の凄まじさは、シリーズファンでなくとも伝わるだろうが、シリーズファンなら尚更である。上映開始1分ほどで、目が離せなくなる。既に体温が1度くらい上がった気がする。
登場する禍威獣と外星人
本作では、いわゆる「怪獣」と呼ばれる存在を「禍威獣(カイジュウ)」と表記する。ただの文字遊びではあるが、不穏な空気は見てとれる。
また、いわゆる「宇宙人」もしくは「異星人」と呼ばれる存在を「外星人(ガイセイジン)」と呼称する。
そして、これらの脅威に対して政府は新たに「防災庁」を設立。その中に5名の専門家による禍威獣特設対策室、通称:禍特対(カトクタイ)を設置した、という設定となっている。
『ウルトラマン』の科学特捜隊を現代的に、かつ、わずかばかりの現実味をもってアレンジした、というワケだ。これだけでシリーズファンなら思わずニヤけてしまうが、まずは本作に登場する禍威獣と外星人たちをご紹介する。これらにも全て元ネタが存在するので、そちらも併せてご紹介する。
ゴメス
『ウルトラQ』第1話に登場した、記念すべきウルトラ怪獣第1号。
当時、ゴジラの着ぐるみに手を加えて作られたゴメスが、本作ではシン・ゴジラの3DCGモデルに手を加えて作られたらしい。
開始早々、目のアップから始まる映像も『ウルトラQ』第1話そのもの。BGMも、もちろん当時のもの。こだわりの強さがハンパない。
マンモスフラワー
『ウルトラQ』第4話に登場した巨大植物。その全長は、なんと100m。
ジュラ紀に存在した吸血植物という設定で、伸ばした根で人間の血を吸い、毒性の花粉を撒き散らすという厄介極まりない存在だが、弱点である炭酸ガスで弱らせて、火炎放射でトドメを刺すことに成功する。
ペギラ
『ウルトラQ』第5話と第14話に登場する冷凍怪獣。本作に登場するのは、第14話「東京氷河期」をベースにしたものとなっている。
大国同士の核実験の影響で突然変異したペンギンらしいが、その見た目からはペンギンの面影はほとんど感じられない。身長は40mで、マイナス130度もの冷凍光線を吐き出し、東京を氷漬けにする。
女性生物学者が弱点を発見したことで駆除された、とあるが、おそらくは南極で発見された苔に含まれる物質・ペギミンHであると思われる。
飛翔禍威獣ラルゲユウス
『ウルトラQ』第12話「鳥を見た」に登場した古代怪鳥。
普段は7cmほどの文鳥のような姿をしているが、空腹になると巨大化して50mもの大きさとなって暴れまわるというとんでもない鳥。動物園の動物たちを一晩で全て捕食するなど、尋常ではない食欲を見せる。
最後は何処かへ飛び去ってしまう、不思議な存在である。
溶解禍威獣カイゲル
『ウルトラQ』第24話「ゴーガの像」に登場した貝獣ゴーガをモチーフとしているが、カイゲルという名は、「化石の城」というボツになった脚本に登場した怪獣の名前である。
どう見ても、カタツムリに見えるのだが、ナメクジと貝殻がデザインモチーフらしい。確かに殻はカタツムリのものではなく、巻貝のようだ。『ウルトラQ』では、その殻のトゲをドリルのように回転させて天井を破ったりもしていた。
本作に登場する禍特対が、初出動した際の相手ということになっている。
放射性物質捕食禍威獣パゴス
『ウルトラQ』第18話「虹の卵」に登場した原子動物で、ウランを主食にしていた。
『シン・ウルトラマン』でも放射性物質を食べるという厄介な禍威獣。顔は、まるでシト。『ウルトラQ』のデザインとは、だいぶ異なる。
ネロンガ
『ウルトラマン』第3話「科特隊出撃せよ」に登場した透明怪獣。
発電所を襲撃し、鼻先の角で電気を吸収する。何から何まで電気によって動いている現代社会にとっては天敵のような存在。普段は透明だが、電気を吸収すると姿を現す。
地上に降り立ったウルトラマン(『シン・ウルトラマン』)の最初の相手にして、スペシウム光線で屠られた第1号となった。
ガボラ
『ウルトラマン』第9話「電光石火作戦」に登場したウラン怪獣。
首の周りにある6枚のヒレを閉じて頭部を保護し、そのヒレをドリルのように回転させて地中を自在に掘り進む。
パゴス同様、ウランを主食にする危険生物。パゴスとネロンガと同一の3DCGモデルを使い回している。これは、『ウルトラQ』のパゴスと『ウルトラマン』のネロンガ、ガボラとの関係性に等しい。予算削減のために、ひとつの着ぐるみを改造して使い回していたのだ。そのことを利用し、『シン・ウルトラマン』でも同様の手法で予算削減にも貢献したというのが面白い。
ちなみにガボラのドリル形態は、かなりメカっぽくて、これもシト感が強い。
ザラブ星人
『ウルトラマン』第18話「遊星から来た兄弟」に登場した宇宙人。他の文明を滅ぼすことを目的としており、凶悪宇宙人という通り名を持つ。
しかし、敵意剥き出しで襲いかかって来るわけではなく、表面上は友好的な仮面を被りながら、じわじわと攻め込んでくる。ウルトラマンを拘束した上で、偽ウルトラマンに化けて地球を攻撃する、という卑劣なことをやってみせた。
基本的なデザインは元々のものを踏襲しているが、本作では、正面から見たときは凹凸があるのに、後ろから見るとペラッペラという、CGでしかなし得ない、まるで金型のような不思議な味付けになっている。
メフィラス星人
『ウルトラマン』第33話「禁じられた言葉」に登場した、悪質宇宙人。
本作でも、慇懃無礼な態度と落ち着いた物腰は健在。高い知能を持ち、暴力ではなく、巧みな話術と、人知を超えた技術によって人心を掌握。あくまでも表面上は、平和的だが、実は地球を我が物にし、地球人を巨大兵士にしようと企んでいた。
外星人としての姿を晒すのは、ウルトラマンによって野望をくじかれた時だけであり、それ以外は人間態で活動していた。山本耕史さんの醸し出す、飄々としたイヤらしさが絶品。微笑みながら人を傷つけることができそうな雰囲気は、まさに悪だった。
宇宙刑事ギャバンの主題歌の中に、「悪いやつらは天使の顔して 心で爪をといでいるものさ」という一節があるが、まさにそれ。白石和彌監督の『凶悪』の中で、リリーフランキーさんが演じていた悪党を思い出す。本作における一番のハマり役であることは、誰の目にも明らか。
元ネタである『ウルトラマン』第33話を視聴してから見返すと、かなり考えさせられる。
『ウルトラマン』では「人間の心に挑戦する」として、一人の少年を誘惑するが、その少年の毅然とした態度によって地球がメフィラスの手に渡ることはなかったのだが、今回は政治家との交渉である。強大な軍事力を目の前にして、我先にとメフィラスの誘いに応じる大人たちの醜い姿は、庵野さんと樋口監督による皮肉にしか見えない。
ゼットン
『ウルトラマン』第39話「さらばウルトラマン」に登場した最後の敵。
原作では、ゼットン星人の最後の切り札として用意されていた宇宙恐竜だったが、本作では、ゾーフィが光の星から地球を滅ぼすため(地球人は危険だと判断したため)に持ってきた超巨大兵器となっている。その大きさは衛星軌道上にありながら、目視できるレベル。
数日かけてエネルギーをチャージし、最終的には1兆度もの超高熱球を放つことで、地球はおろか、太陽系全体を滅ぼすことを目的とする。大きさも破壊力も凄まじいが、防御力も並外れており、ウルトラマンの八つ裂き光輪も弾き返してしまうほど。
全体的なデザインは、原作に準じたものとなっているし、作動時に流れる電子音や、「ゼットン・・・」というくぐもった音声などは、そのままと言って良いが、大きさも成り立ちも、原作とはまるで別物。これもまた『エヴァ』っぽい。
目指したのは究極の造形美、時々エヴァ
デザイナー・成田亨さんが描いた「真実と正義と美の化身」。それは成田さんが目指したウルトラマンの真の姿である。
ウルトラマンの象徴たるカラータイマーを持たないデザインは、ウルトラシリーズの“常識”に毒された目からすると、違和感はあるけれど、この姿を再現したい、というのが、庵野さんの考えだった。
そのために掲げたデザインへのこだわりは以下の通り。
『真実と正義と美の化身』と成田氏が当時から後年にかけて描いていた様々なウルトラマンのイメージを踏襲し融合し再構成させた新たな体表のライン。
成田氏が監修した、佐々木明氏制作によるマスク。
成田氏が望んだ、古谷敏氏の体型データを元にした体躯。
成田氏が望まなかった、眼の部分に覗き穴を入れない。
成田氏が望まなかった、スーツ着脱用ファスナーに伴う背鰭を付けない。
そして、成田氏が望まなかった、カラータイマーを付けない。
引用元:映画『シン・ウルトラマン』公式サイト
これらが結実したのが、新たな姿を持ったウルトラマンである。
CGで描かれた新たなウルトラマンは、確かに美しい。
ただし、アクションシーンの端々に、CGならではのぎこちなさが見えるのが残念といえば残念。このあたりは、同じようにCGを用いている『エヴァンゲリオン』の方が自然な感じを受けるのが面白い。機械が人間のように動く際には、多少のぎこちなさは許容してしまうものの、人間(宇宙人だが)が人間の動きをする際に生じるぎこちなさは許容できないのかもしれない。
とはいえ、本作で初めてスペシウム光線を放つシーンには鳥肌が立った。ここには、『シン・ゴジラ』でも見られた庵野節とでも言うのか、『エヴァ』っぽさが色濃く漂っていた。一瞬の溜めからの解放。こういったカタルシスを表現させたら、右に出る者はいない、と思う。
デザインという点においては、ウルトラマンだけでなく、まるで金型のようなザラブ星人や、そのまま『エヴァンゲリオン』に登場できそうなメフィラス星人やゼットンなど、禍威獣や外星人のデザインにも見どころは多い。
そして、ウルトラマンの変身アイテム・ベーターカプセルのデザインが、また秀逸だ。
原作では、まるでペンライトのようなデザインだったが、それを未来感あふれるスマートな造形に作り替えている。
これを大きくしたベーターボックスも、未来的なデザインでカッコいいのだが、その作動する様は、まさしく『エヴァ』である。『エヴァ』っぽくしたいわけではなく、これこそが庵野さんの中に確固として存在する世界観なのだと思う。だから、『ウルトラマン』には何の興味もない、という『エヴァ』ファンでも、本作は刺さると思う。
セクハラ論争
本作が封切られた直後から悪い意味で注目されているのが、長澤まさみさん演じる浅見弘子に関する描写である。具体的には次の3点。
『シン・ウルトラマン』において問題とされたシーン
- 巨大化した浅見が、野次馬にスカートの中を撮影され、ネットで公開されてしまうシーン
- ウルトラマンが浅見の体臭を覚えようと、上から下まで匂いを嗅ぎ回るシーン
- 浅見が気合いを入れる時、自らのおしりを両手で叩く(その際、おしりがアップで映される。複数回登場)
これらを「不快だ」という意見があって、それらを肯定する人たちも多い。
しかし、私はそこまで目くじらを立てるものでもないように思った。むしろ、面白い(性的な意味ではなく)とさえ感じたほどだ。
まず、巨大化した浅見がスカートの中を撮影される件は、誰もがカンタンに写真や動画を世界中に公開できる、今という時代を切り取っているように感じた。それは単に、テクノロジーのリアリティを加えることで、この現実世界と空想世界との地続き感を生み出す、という意図だけでなく、下世話なネタで大衆の関心を集めたい、バズりたい、という人々の承認欲求を揶揄しているようにも見える。
動画の再生回数が伸びさえすれば何でもいい、「映える」写真でバズりたい、そんな個人の欲求を満たすためだけに迷惑行為を厭わない人は後を絶たないし、その思惑にまんまと引っかかり、バズらせてしまう人々も後を絶たないという現実を憂うからこそ、浅見に、あえてスカートを穿かせ、劇中の大衆を煽ったのではないか、と私は感じた。
メフィラス星人が嘲笑っているのは、劇中に登場する架空の大衆ではない。私たちのことだ。つまり、このシーンはセクハラなんて言葉で括っていいモノではない。人間の愚かな一面が風刺されていると捉えるべきだ。
次に、おそらく本作でもっとも批判の対象になったのが、ウルトラマンが浅見の体臭を嗅ぎ回るシーンだろう。
確かにやりすぎた感はあるかもしれない。これを不快に思う女性がいることも理解はできる。他の解決策も提示できたのではないか? とも思う。しかし、外星人であるウルトラマンには、下劣な欲望など一切ない。ただ、目的達成のためにできることをやったのだ。神永が眉ひとつ動かさずに上から下まで匂いを嗅ぎ回るシーンは、長澤さんのちょっとコミカルなリアクションもあって、クスッと笑えた、というのが正直なところだ。
最後に、浅見が気合いを入れるために自らのおしりを両手で叩く仕草についても不快感はなかった。今どきこんなことをする人はいないだろう、とは思ったけれど。少なくとも、私はかつて、そんな女性を見たことがないからだ。けれど、それは感覚的に古臭いという意味であって、製作陣に対し「長澤さんのおしりが撮りたいだけだな」なんてことは思わなかった。
この浅見のクセが何かの伏線になっていれば、こういった批判も少しはかわせたのかもしれないが、そういったことはなく、物語は進んでいく。おそらく、必要不可欠な設定ではなかったのだろう。『ワンピース』の登場人物たちが、それぞれ独特な笑い声を上げるように、個性の表現だったのだと思う。見た目とは違い、実は肝の据わった女性であることを理解させようというなら、その意図は十分に伝わってきた。
『シン・ゴジラ』との違い
公開直後からネット上には、『シン・ゴジラ』と比較する意見が飛び交っている。もちろん、同じ製作陣によって創られた特撮リブート作品なのだから、あれとこれを比べたら・・・という意見が出るのは理解できる。しかし、怪獣(『シン・ウルトラマン』では禍威獣)が登場するのは同じでも、『シン・ゴジラ』はパニックムービーの側面が強く、『シン・ウルトラマン』は特撮ヒーロー作品である。両者を同じ土俵で評価することはできない。
もちろん『ゴジラ』の名を受け継いでいる以上、『シン・ゴジラ』が、怪獣ゴジラが大暴れする映画であることは間違いない。しかし、ここで描かれる怪獣ゴジラは、主人公ではなく、人間を脅かす存在でしかない。例えるなら、『ジョーズ』みたいなもので、現代に謎の巨大生物が現れたら、どんなパニックが起こるのか、その時、人類はどう対峙するのか、というのが、『シン・ゴジラ』の根幹だった。お気づきだろうか? その巨大生物が怪獣ゴジラである必然性はまるでなかった。極端に言えば、人類の核実験によって誕生した、放射能を撒き散らす、とんでもないバケモノでさえあれば、同様の物語は成立したはずだ。『ゴジラ』の名を冠したのは、商業的な看板という意味合いしかない。
「『ゴジラ』を知らなくとも楽しめる」と評されるほどの名作となった理由はこれだ。そもそも『ゴジラ』である必然性がなかったのだから。純粋に、パニックムービーとしての完成度が高かったのだ。
例えば、怪獣ゴジラが口から吐き出す火炎放射能だって、『ゴジラ』ファンからすれば、「原作のアレを庵野さんが表現すると、こうなるのか」みたいな感動はあるに違いないけれど、もしも『ゴジラ』に関する知識ゼロの『エヴァンゲリオン』ファンが見ても、「シトみたいでカッコいい!」と、これはこれで、やはり感動するはずである。
作品を楽しむのに、『ゴジラ』過去作の知識どころか、『ゴジラ』の名前を知っている必要もない。『ジュラシックパーク』などを観て、ハラハラできる人なら、誰が観ても満足できるはずである。
しかし、『シン・ウルトラマン』はそうではない。
基本的には、『ウルトラマン』オタクによる、『ウルトラマン』オタクのための映画である。それこそが「おっさんホイホイ」と呼ばれる所以だろう。『シン・ゴジラ』が「ゴジラというシンボルを使った完全オリジナル作品」だとしたら、『シン・ウルトラマン』は、「オリジナル要素も盛り込んだウルトラマンの総集編」と言って良い。
だからこちらは、『ウルトラマン』が登場しなければ成立し得ない作品となっているし、そもそも『ウルトラマン』に関する知識がなければ、その面白さを100%享受することはできない作品だとも言える。知らないと全く楽しめないというわけでもないが、知っているからこそ楽しめる部分というのは多い。ここが『シン・ゴジラ』と最も違う部分だ。
そもそも、ウルトラマンが主人公・神永の身体を借りることになった理由からして、『ウルトラマン』第1話でのやり取りを知らない人には、ピンとこないはずである。
もちろん、映画は映画なりの展開で理由付けをしているので、「一見さんお断り」というほど敷居は高くはない。しかし、元ネタを知っていればこそ、楽しめる要素は少なくはない。
偽ウルトラマンの登場。
神永がクルマを発進させようと、シフトレバーを握った瞬間、誰も乗っていなかったはずの助手席から、その手を誰かにつかまれるシーン。
浅見が巨大化するシーン。
いけすかないメフィラス星人。
ここぞという場面でクルクル回転するウルトラマン。
ゾーフィとの対話シーン。
ゼットン・・・などなど。
これらを予め知っているのと知らないのとでは、およそ2時間ほどの上映時間が別物となるはずである。
もちろん、本作を視聴した後に、「あれはどういうことだろう?」と元ネタを掘り起こす楽しみもあるだろう。
その際には、是非、「何故、ゾフィーではなく、ゾーフィなのか?」「米津玄師さんが歌う主題歌『M八七』は『M七八』の誤植じゃないのか?」といった、さらにマニアックな領域にまで踏み込んでもらえると、より『シン・ウルトラマン』のことが好きになるはずである。
ここも『シン・ゴジラ』との大きな違いで、『シン・ウルトラマン』は過去作の入口となるが、『シン・ゴジラ』はおそらく入口にはならない。
先述した通り、『シン・ウルトラマン』には『ウルトラマン』の要素が色濃く散りばめられている。しかし、『シン・ゴジラ』における『ゴジラ』の要素というのは、怪獣ゴジラだけ。だから、『シン・ゴジラ』で感じた面白さを過去作に期待しても、おそらくその期待は満たされない。単に、怪獣映画の始祖ともいえる『ゴジラ』を知りたいなら話は別だが。
確かに違和感はあるけれど・・・
『シン・ウルトラマン』は、まさに、今、見たかった『ウルトラマン』だ。少なくとも私にとっては。
そうじゃない、という人は、庵野さんが考えた全く新しいウルトラマンが観たいと思ったのだろうか? それでは、ただのウルトラシリーズの新作である。『シン・ウルトラマン』のそもそもの趣旨とは違うはずだ。
ただし、完璧だったとは言わない。『ウルトラマン』における(庵野さん的に)印象的なエピソードを何話か詰め込んで1本の映画にした、という作風のためか、細かな人間描写や、禍特対メンバー同士の交流などは最低限しか描かれておらず、人間ドラマとしての物足りなさがあったのは間違いない。どうしてウルトラマンが地球人のために命をかけようとまで思ったのか? この程度のやり取りで、仲間たちとの間にそれほど強い絆が生まれるものか? といった疑問は残る。
だから、様々なところで囁かれている、本作の「そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン」「空想と浪漫、そして友情」といったキャッチコピーに違和感を感じるという意見には、残念ながら同意する他ない。
しかし本作は、基本的には『ウルトラマン』のトリビュート作品であるはずだ。
だとすれば、人間を描くよりも、『ウルトラマン』の魅力を詰め込んだ本作の作り方は間違ってはいない。
ラストは、もったいぶった割には、ちょっと呆気なかった気もするが、終わり方自体は清々しく、嫌いではなかった。ここにファン補正が入っていることは否定しないが、この終盤の展開だけをあげつらって、「これは駄作だ」というには値しないと思う。
もしも、あなたが事前にネット上の批判的な意見を目にして、観にいくかどうか迷っているなら、そんなものは気にせず観に行ってほしい。『ウルトラマン』ファンはもちろん、むしろ『ウルトラマン』のことをそれほど知らない方(そもそも『ウルトラマン』に興味はなかったけれど、話題になっているから気になるという方や、ウルトラシリーズは平成以降の作品しか知らないという方)にも、観てもらいたい。
その際には、先述した通り、『ウルトラマン』(時間的に余裕があれば、『ウルトラQ』も)を予習してから観に行くのがベストだというのが私の意見だが、何も知らなくとも、普通に楽しめる作品であることは間違いないし、本作を観たことで、オリジンを掘り起こすきっかけになることは十分にあり得る。既に60年近くも前の作品だが、今見ても、全く色褪せていない(特撮技術は、今と比べたらもちろん古臭くはあるけれど)ことに驚くだろう。初期のウルトラシリーズは、決して子供向けのヒーローものではなく、純粋に優れたSFだったことが理解できるはずだ。
今、ウルトラシリーズを掘り起こすなら、「TSUBURAYA IMAGINATION」一択である。サブスクにはなるが、とりあえず1ヶ月ほど加入すれば、『シン・ウルトラマン』に関係するエピソードくらいは網羅できるはずだ。詳しくは別記事にまとめておいたので、気になる方は参考にしていただきたい。
最後になるが、このテイストで、ウルトラシリーズ最高傑作との声も高い『ウルトラセブン』なども映画化してくれないかな、などと勝手な想いを抱きつつ、筆を置きたい。これは、それほどの作品である。
それでは、ここまでお読みいただきありがとうございました。
\ 僕と握手! /